律令制支配の破綻
出典:『三善清行意見封事十二箇条』
a臣、去る寛平五年に備中介に任ず。かの国の下道郡に、邇磨郷あり。ここに彼の国の風土記を見るに、b皇極天皇六年に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐ百済を伐つ。百済使を遣わし、救はんことを乞ふ。天皇筑紫に行幸したまひ、将に救の兵を出さんとす。 ……路に下道郡に宿したまふ。一郷を見るに戸邑甚だ盛なり。天皇詔を下し、試みに此の郷の軍士を徴したまふ。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑を名づけて二万郷と曰ふ。後に改めて邇磨郷と曰ふ。
……天平神護年中に、右大臣c吉備朝臣、大臣といふを以つて本郡の大領を兼ねたり。試みに此の郷の戸口を計ふるに、纔に課丁千九百余人ありき。貞観の初め、故民部卿藤原保則朝臣、彼の国の介たりし時に、……大帳を計ふるの次でに、その課丁を閲するに、七十余人ありしのみ。 清行任に到り又この郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。去にし延喜十一年、彼の国の介藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。清行問ふ、「邇磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云はく、「一人もあることなし」と。謹みて年紀を計ふるに、皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、纔に二百五十二年、衰弊の速かなること、また既にかくのごとし。一郷を以てこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。
注釈: a:三善清行。 b:660年。また、この時点では既に、皇極天皇は重祚し、斉明天皇となっていた。 c:吉備真備。
受領の暴政
出典:『尾張国解文』
尾張国郡司百姓等解し申し、官裁を請ふの事
裁断せられんことを請ふ、当国の守藤原朝臣元命、三箇年の内に責め取る非法の官物、并びに濫行横法三十一箇条の愁状
a永延二年十一月八日 郡司百姓等
注釈: a:988年。
大名田堵の農業経営
出典:『新猿楽記』
三の君の夫は、出羽権介田中豊益、偏に耕農を業と為し、更に他の計なし。数町の戸主、大名の田堵なり。兼ねて水旱の年を想ひて鋤・鍬を調へ、暗に腴え迫せたる地を度り、馬杷・犁を繕ふ。或いは堰塞・堤防・溝渠・畔畷の忙に於て、田夫農人を育ひ、或いは種蒔・苗代・耕作・播殖の営に於て、五月男女を労ふの上手なり。作るところの稙穜・粳糯、苅穎他人に勝れ、舂法毎年に増す。……
注釈: ★この史料の作者は藤原明衡。
荘園の寄進
出典:『東寺百合文書』
鹿子木の事
一、当時の相承は、開発領主沙弥、寿妙嫡々相伝の次第なり。
一、寿妙の末流の高方の時、権威を借らんがために、実政卿を以て領家と号し、年貢四百石を以つて割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職となる。
一、実政の末流願西微力の間、国衙の乱妨を防がず。この故に願西、領家の得分二百石を以つて高陽院内親王に寄進す。件の宮薨去の後、御菩提の為に、勝功徳院を立てられ、かの二百石を寄せらる。其の後、美福門院の御計としてa御室に進付せらる。これ則ち本家の始めなり。……
注釈: a:京都御室の仁和寺を指す。 ★この史料が加賀藩主前田綱紀にとって寄進されたことは有名。
延久の荘園整理令
出典:『百錬抄』
(a延久元年二月)廿三日、b寛徳二年以後の新立荘園を停止すべし、縦ひかの年以往と雖も、立券分明ならず、国務に妨けある者は、同しく停止の由宣下す。
閏二月十一日、始めて記録庄園券契所を置き、寄人等を定む。
注釈: a:1069年。 b:1045年。
記録所の設置
出典:『愚管抄』
コノ後三条位ノ御時、……延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチa宇治殿ノ時、b一ノ所ノ御領御領トノミ云テ、庄園諸国二ミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケル二コソ。サテ宣旨ヲ下サレテ、諸人領知ノ庄園ノ文書ヲメサレケルニ、宇治殿ヘ仰ラレタリケル御返事ニ、「皆サ心エラレタリケルニヤ。五十余年君ノ御ウシロミヲツカウマツリテ候シ間、 所領モチテ候者ノ強縁二センナド思ツヽヨセタビ候ヒシカバ、サニコソナンド申タルバカリニテマカリスギ候キ。……
注釈: a:藤原頼通のこと。 b:摂関家という意味。